父と行ったドブ池の鯉釣り|小2の夏が釣り人生の原点
みなさんの「釣りの原点」はどこにありますか?
立派な堤防でのサビキ釣りだったり、管理釣り場でのニジマスだったり、人それぞれ始まりの思い出は違うと思います。
私の場合は――小学校2年生の夏、父と出かけた近所のドブ池での鯉釣りでした。
決してきれいとは言えない池。むしろ「こんなところで本当に魚が釣れるの?」と疑いたくなるような場所でした。けれども、あのとき父と過ごした時間は今でも鮮明に心に残っています。
小2の夏、父に誘われて
私は長野の山奥で育ちました。まわりは田んぼや畑に囲まれ、少し歩けば雑木林や小川が流れる、自然が当たり前にある環境でした。そんな中で父は鯉釣りに夢中になり、よく近所の池に通っていました。
仕掛けを準備し、餌をこねて丸め、仕掛けに付けて池に投げ込む。あとはひたすらウキが沈むのを待つ。外から見ればただじっと座っているだけに見えるのですが、父はその時間がとても好きだったのでしょう。
ある夏の日、父はふと「一緒に行くか?」と私に声をかけてくれました。小学生にとって父と二人で出かけるのは特別なこと。私は大きな期待を抱きながら、その誘いに飛びつきました。

蒸し暑い午後とセミの声
その日は真夏の午後。照りつける日差しでアスファルトは熱を帯び、立っているだけで汗がにじみました。あたりではセミが大合唱し、みんみんゼミの声が耳の奥にまで響いていました。
目的地の池は、田んぼの横に広がる小さなため池。水は濁っていて底は見えず、ところどころに泡が浮かび上がっています。草むらはぼうぼうで、どこからともなく泥のようなにおいが漂っていました。
父は黙々と竿を組み立て、こねた団子餌を仕掛けに付けて投げ入れます。ぽちゃん、と水面に落ち、赤いウキがふわりと浮かびました。父は腰を下ろし、そのウキをじっと見つめ続けました。
私は虫探しに夢中
ところが、小2の私にとって「待つ釣り」はすぐに退屈になりました。ウキは全然動かないし、水面には魚影も見えません。私は父の後ろで走り回り、草むらをかき分けてバッタを探したり、セミの抜け殻を拾ったりして遊び始めました。
そんな私に父は「ほう、でかいの捕まえたな」と笑いかけてくれます。でも目線はすぐにまたウキへ戻っていく。子ども心に「ああ、父は本当に釣りが好きなんだ」と思ったのを覚えています。

釣果はゼロ、それでも残ったもの
数時間たっても、赤いウキは一度も沈みませんでした。夕方になり、池に影が伸びはじめたころ、父は静かに竿をたたみ「今日は釣れなかったな」とつぶやきました。
私は少し残念な気持ちになりましたが、不思議と嫌な思い出ではありません。むしろ、帰り道で父とかわしたくだらない会話――学校のことや、虫取り網を買ってほしいという話――そうした何気ない時間が強く心に残っているのです。
魚は釣れなかったけれど、あの日「釣りは魚を釣るだけじゃなく、誰かと一緒に過ごす時間そのものが楽しいんだ」と初めて感じました。
あの日が原点
あのドブ池での一日が、私の釣り人生の原点になりました。
「釣れなくても楽しい」という感覚を知ったことで、私はその後も自然と釣りに惹かれ続けるようになったのです。
学生のころは友達と川でオイカワやウグイを狙ったり、社会人になってからは海釣りに挑戦したり。どんな釣りでも、根っこには「父と過ごしたあの日」の記憶が息づいています。
今の私と釣り
大人になった今、私はタイラバやジギングに夢中です。最新のタックルを揃え、仲間と船に乗り込み、海の大物を狙う。あの日のドブ池とはまるで別世界のような釣りですが、心のどこかでいつも「釣果だけじゃないよな」と思っています。
どんなに高価な竿やリールを使っても、どんなに大きな魚を釣り上げても、「誰と、どんな時間を過ごしたか」が一番大切だという気持ちは変わりません。あの小さな池で父と過ごした時間が、私の中に釣りの価値観を植えつけたのだと思います。

読者のみなさんへ
これを読んでくださっている方にも、きっとそれぞれの「釣りの原点」があるはずです。
特別な場所や大物でなくてもいい。近所の川や池でも、家族や友人と過ごした一日が、一生の思い出になることがあります。
もしこれから釣りを始めようと思っている方がいたら、ぜひ身近な場所で誰かと一緒に竿を出してみてください。釣果はゼロでも、心に残る一日になるかもしれません。
まとめ
- 小2の夏、父に連れられて近所のドブ池で鯉釣りをした
- 池は汚く、魚は一匹も釣れなかった
- それでも父と過ごした時間が強く心に残り、「釣りは楽しい」と感じた
- 今ではタイラバやジギングに熱中しているが、その根底にはあの夏の経験がある
私にとって釣りは、魚を釣ること以上に「思い出を積み重ねること」です。あのドブ池の夏があったから、今も竿を手にしている――そう断言できます


